木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 そんな上層部の思惑などつゆ知らぬ私は、「制作部東京連絡事務所」などという、まるで郵便ポストを思わせる名称が気に入らなくて、名刺を作る際にも 「吉本興業制作部東京セクション」、肩書も係長ではなく「チーフ」にしていました。でないと、他のプロダクションと戦えないと思ったからです。正に、「やすし・きよし担当マネージャー」という名刺を作ったのと同じ発想だったのかもしれません。それについて、会社からは特段のお咎めもなかったように思います。それどころか、「東京へ行ったら、こうしろ!」という格別のミッションすら与えられていませんでした。

 普通なら、「初年度の売り上げ目標は、これこれで・・・」などと、細かく指示をされるのでしょうが、そんなこともなく、ただ放り出されたという状態でした。こういうと、誰しも不安に思うものですが、私はどうもそういう質(たち)ではないようで、「何も指示されないということは、何をやってもいいということだ」と考える癖があるようなのです。「よし、これから東京局の仕事は、全てこの東京セクションで仕切ることにしよう」と密かに決めたのです。

 当然、単なる出先機関だと思っている大阪本社のスタッフから反発が起きることは予測されましたが、それに構っている余裕はありませんでした。7月1日放送の「THE MANZAI」第3弾が27.2%もの視聴率を稼いだこともあって、各局によるタレントの争奪戦が始まっていたからです。開業間もない事務所は、連日押し寄せるテレビ局のプロデューサーへの対応に忙殺されていました。打ち合わせがてら、仕事を終えたタレントさんたちと、マネージャーを交えて食事をとるのが深夜に及ぶこともしばしばありました。宿舎の隣のホテル陽光でモーニングを食べてから寝るなんてことも、珍しくはなかったと思います。

 ある時、同居している大崎君が39度の高熱を出し、「大丈夫!死なへんから!」と言って送り出そうとしたこともあります。今なら「ブラック企業」として訴えられても不思議はないですね。結局3日間休み、無事に快癒はしましたけどね。さすがに、日々の業務に忙殺されて、経費の精算を3か月ばかり怠った時には、林次長から直々にお叱りの電話をいただきましたが、それ以外は相変わらず野放し状態でした。懐が深いというか、何とも不思議な会社です、吉本興業という所は。