木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 この頃(1978~1979)の関西の演芸界は沈滞ムードに覆われていました。Wヤングの中田軍治さんの自殺などもあって、漫才番組も激減し、各局合わせても週1~2本を数えるばかりでした。たしか「上方芸能」という雑誌で「上方漫才は死滅したのか」という特集が掲載されたりしていました。一方、新喜劇でも伴大吾や、谷しげる、淀川五郎といったベテランクラスが借金苦で失踪したり、退団を余儀なくされていました。劇場の観客動員も減少し、一部では、このままいけば「閉館も余儀なくされることになるのでは」と、危惧する向きもあったように記憶しています。

 そんな中でしたね、B&Bから相談を受けたのは。「いくら賞を受けても、上にはやす・きよ、カウス・ボタンといった、そうそうたるメンバーがいて、いつまでたってもテレビに出られない。このままだとチャンスを逃してしまうので、東京へ出てチャレンジをしてみたい」とのことでした。どうやら、「ヤングOH!OH!」の若手ユニットである「チンチラチン」のコーナーに、弟弟子の紳助・竜介が選ばれ、自分たちが外れたことが引き金になったようです。このときのB&Bは3代目(相棒が洋八君)で、洋七君の初代の相棒がまだ団純一君(現放送作家・萩原芳樹)の頃、我が家に泊めたことや、私が、やすきよさんのマネージャーを離れてからも東京へ出て、東京事情に明るいと思われたのかもしれません。

 「自社のタレントを、同業の他社に紹介するなんて!」と思われるかもしれませんが、それが本人たちの願いなら「チャンスをつかむために、フィールドを変えてみるのもいいのかな」と思っただけのことです。後で、会社から殊更咎められることもなかったのは、彼らがまだ、会社として問題になるほどのタレントでもなかった、ということかもしれません。ただ、せっかく移籍をするのなら、既存の大きな事務所ではなく、「小さくてもいいから、彼らのことを懸命に考えてくれる所はどこか?」ということを主眼に選んで、彼らに勧めたのが戸崎事務所だったというわけです。戸崎社長の誠実そうなお人柄と、どちらかというとダサい服装の多い、お笑い界のマネージャーの中で、アイビースタイルでピシッと決めた姿がかっこよくて、きっと「この人なら、マネジメントのセンスもいいんじゃないかな」と思ったからです。私は紹介だけをして、その後のことは両者の話し合いで決まったのですが、結果これが吉と出て、以降B&Bの快進撃が始まったのですから、不思議なものですね。

伴大吾さん(左)と谷しげるさん

 

3代目 B&Bでブレイクしました。