木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 このWヤングさん、もともとキャリア十分な方たちでしたが、千土地興行・娯楽観光というプロダクションから移って来られた外様組ということもあって、それまであまり脚光を浴びることはありませんでした。ところが、3年前に上方漫才大賞を取られたあたりから一気にブレイクして、後年「やす・きよが最も恐れた漫才師」とか、ビートたけしさんが「何年やっても、追い越すどころか、追いつくこともできない」と評されたという逸話があるほどの実力が世間に認められる存在となっていました。それまでは、私がやす・きよさんのマネージャーだったということもあって、お二人とはじっくりとお話をしたこともなかったのですが、その話芸の巧みさには目を見張るものがありました。ともに苦労人らしく、やす・きよさんから離れて落ち込んでいるこちらの気分を斟酌するかのようにやさしく接していただきました。2月に厚生年金会館で開かれたリサイタルも上首尾に終り、Wヤング時代の到来を予感させるものがありました。

 ところがその翌年、2人にとって、まさに「これから」という時に事件は起きたのです。順境の中にいるとばかり思っていたWヤングの中田治雄さんが、難波花月初日の2回目の舞台から失踪したのです。発見されたのはその4日後、東尋坊で思いを果たせず、その後に辿り着いた熱海海岸で自殺したとの報せが会社に入りました。新聞では「賭博や事業の失敗でできた借金を苦にして!」と報じられましたが、後に、相棒の平川さんの仲介で、会社が借金を肩代わりした際、気の弱い中田さんが全額を申告しなかったため、残った借金が膨らんだ挙げ句に自殺を図ったということが判明しました。お人好しで、気の弱い中田さんらしいエピソードです。

 漫才ブームの先駆けとなった花王名人劇場「漫才新幹線」が、澤田隆治さんのプロデュースによって放送される、つい2か月ほど前の出来事でした。澤田さんが「花王で漫才をやる時、最初に呼びたい」とおっしゃっていたこのコンビが、もし健在だったとしたら、以後の漫才界の勢力図はどう変わっていたのでしょう。今思えば、くれぐれも惜しまれる、中田さんの自殺でしたねえ。

キングレコードから発売した「楽屋人生/そんなもんだよ人生は」

 

1978年に発売した「女の法善寺」

 

当時の大阪厚生年金会館

 

漫才ブームの先駆けとなった「激突!漫才新幹線」のワンシーン

 

中田さんの自殺を報じた新聞記事