木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 当時、私はまだ肩書こそ平社員のままでしたが、やすしさんの「かごかき事件」や「ボート免許不所持で逮捕」など、多少のアクシデントはあったものの、やす・きよさんの仕事は順調に増えて、いっぱしのマネージャー面をしていました。そんな最中に、事は起こりました。西川さんに、翌年1月からスタートするレギュラー番組への出演を拒否されたのです。いつも番組を決めるときは、先ずタレントさんに話をして、了解を取ってから進めるのですが、この時に限って、そのプロセスに抜かりがあり、日々顔を合わしながら、丁寧に確認をする作業を怠っていたのです。間の悪いことに、テレビ局のプロデューサーから先に、「新番組、よろしくお願いします!」と挨拶をされてしまいました。その場はあいまいな返事をしてやり過ごしたものの、爾後にいくら釈明をしても、結局、西川さんの翻意を促すことができず、事態は暗礁に乗り上げてしまいました。

 最後は、上司の取り成しもあって、この「象印ライバル対抗大合戦」の司会にはやす・きよさんが出演することになり、事なきを得たのですが、これをきっかけに、私は2人のマネージャーを外されるということになりました。会社側の判断としては、その膠着状態を見て「そろそろこの辺りが限界だ」という判断があったのでしょうが、生意気盛りの私には「結局、会社は社員よりもタレントの意思の方を選ぶんだ」としか受け止めることができませんでした。今思えば、会社の下した判断は至極当然のことなんですけどね。

 周りの見る目も変わりました。今まで局を訪ねると「木村ちゃん、お茶に行こう!」と誘ってくれた人からも、「ちょっと、打ち合わせがあって・・・」などと、避けられるようになったこともありました。つまるところ、今までの付き合いは私個人とではなく、背後にやす・きよさんという売れっ子タレントの存在があって、初めて成り立っていたんだということを思い知らされました。「やす・きよという存在がなくなった今、あなたと付き合っても何のメリットもないよ」ということなのでしょう。

 後任になった、10歳ほど上の先輩との引継ぎを終えた後は、確たるミッションもなく、時間もたっぷりとあったので、3つの劇場を回って、今までじっくりと見たことがなかった舞台を観たり、各種のイベントに顔を出したり、局では先輩たちが余り行かないKTVやOBCへ日参をしていました。そんな中、作家・中田昌秀さんの勧めもあって、今まであまりお付き合いのなかったWヤングさんの20周年リサイタルに関わる事になり、2人とのお付き合いが深まるようになりました。

 Wヤングさんとの最大の思い出は、ラジオの公開録音で大分へ行った時のこと。折り悪しく台風が接近中とあって、「もしかしたら引き返すかもしれない」というアナウンスと共に伊丹空港から飛び立ったのですが、何とか着陸したのはいいけれど、波が高くてホバークラフトは運航禁止。波しぶきにさらされながら別大国道をタクシーで会場に向かったのはいいのですが、着いてみたら閑散とした有様。それでも、「何かしゃべらないとギャラにならないから」と2人を促して舞台に立ってもらいました。早々に終えホテルで夕食を取ったものの、時間を持て余し、誰からともなく「〇〇ランドへ行ってみよう」ということになりました。ところが、いくらタクシー会社に電話をしても捕まりません。もう「これでだめなら諦めよう」と一縷の望みをかけた電話が奇跡的につながって、喜び勇んで念願の〇〇ランドへ出かけたものの、着いてみたらどの店も、〇〇嬢が避難してしまってクローズ。唯一灯りの付いていた店を訪ねると、「こんな日に来る物好きな客はおらんじゃろう」。皆でがっくり肩を落として帰ったことがありました。Wヤングさんがマイクの前でしゃべったのが、たった5~6分、ホテルから往復1時間もかけて、打ち寄せる波に怯えながら、勇躍〇〇ランドへ到着したらこの有様、まさに「骨折り損のくたびれ儲け」を地でいったような結果となりました。

タクシー運転手さんは「駕籠かき」ではありません。

 

Wヤングさん

 

お誘いをいただいた中田昌秀さんの著書

 

こんな感じ・・・