木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 当時、私はまだ肩書こそ平社員のままでしたが、やすしさんの「かごかき事件」や「ボート免許不所持で逮捕」など、多少のアクシデントはあったものの、やす・きよさんの仕事は順調に増えて、いっぱしのマネージャー面をしていました。そんな最中に、事は起こりました。西川さんに、翌年1月からスタートするレギュラー番組への出演を拒否されたのです。いつも番組を決めるときは、先ずタレントさんに話をして、了解を取ってから進めるのですが、この時に限って、そのプロセスに抜かりがあり、日々顔を合わしながら、丁寧に確認をする作業を怠っていたのです。間の悪いことに、テレビ局のプロデューサーから先に、「新番組、よろしくお願いします!」と挨拶をされてしまいました。その場はあいまいな返事をしてやり過ごしたものの、爾後にいくら釈明をしても、結局、西川さんの翻意を促すことができず、事態は暗礁に乗り上げてしまいました。

 最後は、上司の取り成しもあって、この「象印ライバル対抗大合戦」の司会にはやす・きよさんが出演することになり、事なきを得たのですが、これをきっかけに、私は2人のマネージャーを外されるということになりました。会社側の判断としては、その膠着状態を見て「そろそろこの辺りが限界だ」という判断があったのでしょうが、生意気盛りの私には「結局、会社は社員よりもタレントの意思の方を選ぶんだ」としか受け止めることができませんでした。今思えば、会社の下した判断は至極当然のことなんですけどね。

 周りの見る目も変わりました。今まで局を訪ねると「木村ちゃん、お茶に行こう!」と誘ってくれた人からも、「ちょっと、打ち合わせがあって・・・」などと、避けられるようになったこともありました。つまるところ、今までの付き合いは私個人とではなく、背後にやす・きよさんという売れっ子タレントの存在があって、初めて成り立っていたんだということを思い知らされました。「やす・きよという存在がなくなった今、あなたと付き合っても何のメリットもないよ」ということなのでしょう。

 後任になった、10歳ほど上の先輩との引継ぎを終えた後は、確たるミッションもなく、時間もたっぷりとあったので、3つの劇場を回って、今までじっくりと見たことがなかった舞台を観たり、各種のイベントに顔を出したり、局では先輩たちが余り行かないKTVやOBCへ日参をしていました。そんな中、作家・中田昌秀さんの勧めもあって、今まであまりお付き合いのなかったWヤングさんの20周年リサイタルに関わる事になり、2人とのお付き合いが深まるようになりました。

 Wヤングさんとの最大の思い出は、ラジオの公開録音で大分へ行った時のこと。折り悪しく台風が接近中とあって、「もしかしたら引き返すかもしれない」というアナウンスと共に伊丹空港から飛び立ったのですが、何とか着陸したのはいいけれど、波が高くてホバークラフトは運航禁止。波しぶきにさらされながら別大国道をタクシーで会場に向かったのはいいのですが、着いてみたら閑散とした有様。それでも、「何かしゃべらないとギャラにならないから」と2人を促して舞台に立ってもらいました。早々に終えホテルで夕食を取ったものの、時間を持て余し、誰からともなく「〇〇ランドへ行ってみよう」ということになりました。ところが、いくらタクシー会社に電話をしても捕まりません。もう「これでだめなら諦めよう」と一縷の望みをかけた電話が奇跡的につながって、喜び勇んで念願の〇〇ランドへ出かけたものの、着いてみたらどの店も、〇〇嬢が避難してしまってクローズ。唯一灯りの付いていた店を訪ねると、「こんな日に来る物好きな客はおらんじゃろう」。皆でがっくり肩を落として帰ったことがありました。Wヤングさんがマイクの前でしゃべったのが、たった5~6分、ホテルから往復1時間もかけて、打ち寄せる波に怯えながら、勇躍〇〇ランドへ到着したらこの有様、まさに「骨折り損のくたびれ儲け」を地でいったような結果となりました。

タクシー運転手さんは「駕籠かき」ではありません。

 

Wヤングさん

 

お誘いをいただいた中田昌秀さんの著書

 

こんな感じ・・・

 

HISTORY

第話

 このWヤングさん、もともとキャリア十分な方たちでしたが、千土地興行・娯楽観光というプロダクションから移って来られた外様組ということもあって、それまであまり脚光を浴びることはありませんでした。ところが、3年前に上方漫才大賞を取られたあたりから一気にブレイクして、後年「やす・きよが最も恐れた漫才師」とか、ビートたけしさんが「何年やっても、追い越すどころか、追いつくこともできない」と評されたという逸話があるほどの実力が世間に認められる存在となっていました。それまでは、私がやす・きよさんのマネージャーだったということもあって、お二人とはじっくりとお話をしたこともなかったのですが、その話芸の巧みさには目を見張るものがありました。ともに苦労人らしく、やす・きよさんから離れて落ち込んでいるこちらの気分を斟酌するかのようにやさしく接していただきました。2月に厚生年金会館で開かれたリサイタルも上首尾に終り、Wヤング時代の到来を予感させるものがありました。

 ところがその翌年、2人にとって、まさに「これから」という時に事件は起きたのです。順境の中にいるとばかり思っていたWヤングの中田治雄さんが、難波花月初日の2回目の舞台から失踪したのです。発見されたのはその4日後、東尋坊で思いを果たせず、その後に辿り着いた熱海海岸で自殺したとの報せが会社に入りました。新聞では「賭博や事業の失敗でできた借金を苦にして!」と報じられましたが、後に、相棒の平川さんの仲介で、会社が借金を肩代わりした際、気の弱い中田さんが全額を申告しなかったため、残った借金が膨らんだ挙げ句に自殺を図ったということが判明しました。お人好しで、気の弱い中田さんらしいエピソードです。

 漫才ブームの先駆けとなった花王名人劇場「漫才新幹線」が、澤田隆治さんのプロデュースによって放送される、つい2か月ほど前の出来事でした。澤田さんが「花王で漫才をやる時、最初に呼びたい」とおっしゃっていたこのコンビが、もし健在だったとしたら、以後の漫才界の勢力図はどう変わっていたのでしょう。今思えば、くれぐれも惜しまれる、中田さんの自殺でしたねえ。

キングレコードから発売した「楽屋人生/そんなもんだよ人生は」

 

1978年に発売した「女の法善寺」

 

当時の大阪厚生年金会館

 

漫才ブームの先駆けとなった「激突!漫才新幹線」のワンシーン

 

中田さんの自殺を報じた新聞記事

 

HISTORY

第話

 Wヤングさんのリサイタルも無事終わり、一息ついていた私に「笑福亭仁鶴さんと、花紀京さんを担当しろ」という新しいミッションが下りてきました。仁鶴さんは、「今日の吉本は、この人が作った」といわれるほどに貢献のあった方です。OBCの「オーサカオールナイト・夜明けまでご一緒に!」という深夜放送で、それまでの概念を打ち破って、「ごきげんよう!ごきげんよう!」とがなり立てるテンポの速いしゃべりでデビューを果たして以来、脚光を浴び、テレビの世界でも「視聴率を5%上げる男」と異名をとるほどの人気を博し、番組の改変期には、各局が仁鶴さんの出演をめぐって、争奪戦を演じたといいます。そんな仁鶴さんも、さすがにそれまでの酷使が祟ったのか喉を傷めて、少し仕事をセーブしようかとされていた時期でした。

 一方、花紀京さんは、ご存じ横山エンタツさんのご次男で、当時の人気番組「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」「細うで繁盛記」「どてらい男」など生涯に6000本を書いたといわれる脚本家の花登筐さんに師事した後、吉本入りをしたサラブレッドで、ギャグを嫌い、会話のやり取りで笑わせるのを良しとした人でした。ニット帽を被り、ニッカーポッカー姿で、岡八郎さんと交わす会話には絶品の趣がありました。

 お二人とも芸を極め、品物に例えて言えば完成品に近い方、しかも私より9歳も上。「いったい、この私に何をしろというんだ?」と思いましたね。発展途上のタレントさんのマネージャーって、一緒に「頂点を目指そう」という目標があって、やりがいがあるのです。夢も見られますし、戦略も描けます。でも、成熟期に入ったタレントさんのマネジメントは、そう一筋縄にはいかないのです。案の定、意気込んでご自宅へ挨拶に伺った仁鶴さんからは、「まあ、ボチボチやんなはれ」と軽くあしらわれてしまいました。花紀さんの場合も然り。さて困った。考えたあげく、まずは、四の五の言わずに、お二人の現場をフォローすることから始めることにしました。いままで、苦手として敬遠していたこのお二人と仕事ができるようになったら、苦手というものがなくなるのですから。「十九」じゃなく、「三十一」の春、入社9年目のことでしたね。

ニット帽とニッカーポッカー姿の花紀京さん

 

花登筐さん

 

花登筐さん原作のテレビ漫画文庫「やりくりアパート」は1959年(昭和34年)に集英社から発売されました。

 

最高視聴率50.6%を記録して、全100回放送されて上方コメディを全国に知らせるきっかけになりました。

 

HISTORY

第話

 かって「神風タレント」と呼ばれていた頃と違って、仁鶴さんのスケジュールも、喉に負担のかからないようにとの配慮から、余裕を持たせたものになっていました。レギュラー番組も、ABCラジオの「ヤングリクエスト・仁鶴の頭のマッサージ」と「ポップ対歌謡曲」」くらいだったと思います。私が先輩から引き継いだ時は、ちょうど大映映画の「ギャンブル一家・ちと度が過ぎる」の撮影中とあって、豊中の自宅から京都まで、愛車のフォルクスワーゲン・カルマンギアタイプⅢに乗せていただいて通ったのを覚えています。ただ、2人乗りのスポーツタイプだったので、先輩が同伴した時は、先輩が前で私は窮屈な姿勢で後部に座り、京都に着くまで大変な思いをしました。後日、何の機会だったのか覚えていませんが、ロールスロイスに乗せていただいて、広々とした後部座席にカップラーメンが入っていたこともあり、そのアンバランスな取り合わせに、妙に感動したのを覚えています。

 梅田コマ劇場で「滝の白糸」に出演された仁鶴さんの姿を見て、どうしても仁鶴さんに芝居をやっていただこうと、関西テレビ「どてらい男」の山像プロデューサーにお願いして「春団治恋狂い」という自主公演を、無謀にも大阪の三越劇場でやることになりました。相手役は、必殺シリーズ「暗闇仕留人」・妙心尼の「なりませぬ」というセリフで知られた、三島ゆり子さん。たった2日間、3ステージという短い公演でしたが、舞台上のことは全て山像さんにお任せして、私は専ら、付き合いのある代理店やプロダクション、タレントさんがやっている夜の店を訪ねて、チケットを捌くことに追われていました。当時は、自社のtタレントが、他の舞台で自主興行をやることは原則的には認められていなかったので、そのプレッシャーもありましたし、赤字を出すことなど、とても許されなかったので、必死の思いでしたね。社内の誰からも褒められはしませんでしたが、自分の中では、「やり切った感」に浸っていました。ただ、チケットは売れても、そのために、使った飲み代などの経費をカウントできないということもあって、結局数十万円ほどの持ち出しになりました。そのまま、会社に提出するわけにもいかず、結局、母親から借金をして穴埋めをして帳尻を合わせました。後日、母にはそれを返却したのですが、とうとう母は死ぬまで「あの時、お前に金を貸してやった」と言い続けていましたね。

笑福亭仁鶴さんと新喜劇の作家 中村進さん

 

カルマンギア

 

KTVプロデューサー山像信夫(作家名:逢坂勉)さん 

奥様の女優 野川由美子さんとのツーショット 

 

「春団治恋狂い」のチラシ

 

三島ゆり子さん

 

チケット捌きに奔走していたメモ書き

 

大阪三越劇場の外観

 

重厚な色調で彩られた内観

 

やりきった感

 

HISTORY

第話

 仁鶴さんはその後、ABCを退職して東阪企画を設立された澤田隆治さんからの誘いもあって、NTV「ズームイン朝」の「おはよう新婚さん」というコーナー司会をやることになり、私も収録の京王プラザホテルへ週2回ほど行くことになりました。そうそう思い出しました。この番組の収録が終わった後、一人でエレベーターに乗ると、何と高倉健さんが一人で乗っていらっしゃたんです。どうしてサインを貰わなかったのか今でも悔やまれますが、そう思わせない凛とした佇まいに気圧されたのかもしれませんね。

 一方の、花紀さんは花月以外に、梅田コマや新宿コマなど、他劇場への出演も多く、多くの役者さんと同様に、普段はほとんど一人で動かれていました。そんな花紀さんに東京のNHKから「コメディー公園通り2」への出演依頼が入ったので、私もそれをフォローすることになりました。やす・きよさんのマネージャーを離れて以来、少し頻度が落ちていた東京行きの機会がまた増えてきたのです。NHKが内幸町から渋谷へ移り「パルコ」ができて、石岡瑛子さんをアートディレクターに登用、タウン誌「ビックリハウス」なども発刊、新しい人の流れをつくったこともあって、「区役所通り」と呼ばれていた通りが「公園通り」と呼ばれるようになり始めていた頃のことです。堺正章さんや井上順さん、桜田淳子さんといった方々を相手に飄々と演じる花紀さんの姿は、花月劇場で見る姿とはまた違った味があるように思えました。収録を終えて、食事をとりながら伺った数々のお話は、テーブルに供されたどんな料理よりも「おいしかった」ような気がします。

 仁鶴さん花紀さん、お二人ともが、人生経験が豊かで世事や人情に通じ、それをベースに穏便で適切な判断ができる、いわば「酸いも甘いも噛分けた」大人だったということです。それまでの私は、関わったタレントさんを売り出すために、自分なりの戦略を立てて、時にはその人たちの意向を無視してでも描いたプランを押し通そうとしていました。このお二人に触れて、初めてそれまでの自分の拙さに、気付かされたような思いがしました。

 考えてみれば、やす・きよさんのマネージャーを外れろと言われたのも、「ちょっと頭を冷やして、勉強し直して来い!」という上の判断だったのかもしれません。にもかかわらず、「会社は、社員よりもタレントの方を尊重するんだ」と恨みに思っていた自分は、なんと浅はかだったのでしょう。やす・きよさんとのお付き合いは、マネージャーを離れて以降も長く続くことになりますが、それについては、また後々に触れることにしたいと思います。

「コメディー公園通り」の台本

 

若者文化の発信拠点として1973年にオープンしたPARCO

 

タウン誌「ビックリハウス」

 

収録が行われていた京王プラザホテル

 

HISTORY

第話

 当時は、仁鶴さんや花紀さんのマネージメントの他に、劇場プロデューサーを務めていたので、楽日の夕方以降から、初日の夕方までは劇場に詰めていなければならなかったのですが、新しい部下が配属されたこともあって、以前よりは少しゆとりのある時間を持てるようになっていました。とはいえ、この頃の私は、パチンコも麻雀もせず、ゴルフもやらず、酒も飲めない私には、誰からの誘いもなく、仕事以外に、いったい何をしていたのか思い出せないような生活を送っていた気がします。

 「KTVやOBCへよく通っていた」という話は以前にもしましたが、そんなKTVで斬新な番組が始まりました。「誰がカバやねんロックンロールショー」。ヤマハの88ロックデイに優勝し、80年代前後に関西を中心に活躍をしたロックバンドをメインにした番組です。新喜劇の原哲男さんのギャグから名付けたというこのバンド、「ロック版のクレージーキャッツ」というコンセプトで渡辺プロと契約したこともあって、関西テレビで番組を持つことになったのだと思いますが、こんな奇抜な番組を、金曜の夜7時というファミリータイムに始めたのですから驚きました。吉本からは司会に明石家さんま、他に紳助・竜介という将来が期待されるタレントが出ていたこともあって、収録している阪急ファイブ8階のオレンジルームへ顔を出すと、渡辺プロの中井猛さんに会いました。後にスペースシャワーTVの社長になられたのですが、この時は、まだ渡辺プロ大阪支社のチーフ格くらいだったと思います。いろいろ話しているうちに同じ大学で同じ歳ということが分かって、何かと話をするようになりました。ちなみに、この番組のプロデューサーの上沼真平さんも確か同じ歳でしたね。

 そんな縁がもとで、吉本と中井さんが立ち上げたレーベルの「ノンストップ」が共催をして音楽イベントをやることになりました。タイトルは「スーパーマッシュルーム・笑ってごまかせ!」、場所は難波花月。出演はダディ竹千代&東京おぼけキャッツ、アンルイス、浪速のクイーン・オブ・ソウル大上留利子、そして吉本からは紳助・竜介。通常興行を早めに終えてやる公演だけに、成功させるべく、あちこちの番組や紙媒体に告知をしたりと大変な思いをしました。そうそう、深夜に町中で電信柱に登ってポスターを貼ったりもしましたね。中井さんも私も、どこかで「今までのシーンを変えたい」と思っていたのでしょうね。

中井猛さん

 

上沼真平さん

 

浪速のクイーン・オブ・ソウル 大上留利子さん   ダディ竹千代さん

 

さすがに、こんな高くまでは登っていませんが・・・

 

HISTORY

第話

 当時大阪には、関西のサブカルチャーに大きな影響を持つ「プレイガイドジャーナル」というB6版の情報誌がありました。確か、ここが主催したイベントだったと思うのですが、「大阪・若手文化人の集い」というチラシが目に入ったので「どんな奴がおるねん?」という興味と、場所が本社ビルの階下にある日立ホールということもあって出かけてみることにしました。都合5・6人の人が出てきてあれこれと話をしたのですが、いずれもさして興味を引くものではなかったのですが、たった一人だけ「大阪のチンピラを主人公にした映画を創りたいんですわ!」と叫んだ男がいて、彼だけが印象に残り、後日に2人で会うことにしました。

 彼の名は井筒和生(現在は和幸)さん。「ピンク映画ばかり撮っていて、そろそろ自分がやりたいものを撮ってみたい」とのこと。さりとて映画会社に強いコネがあるわけでもなく、考えを巡らせていてふと思いついたのが、「一気に映画へ行く前に、一度テレビでやってみたらどうだろう」ということでした。そこで、年齢も近く、親しくしていたKTVの西田さんに話を持って行くと、興味を示し、日曜日の16:15~17:40のローカル特番枠でやろう」ということになりました。井筒さんが脚本を担当し、キャスティングも紳助・竜介、明石家さんま、阪神巨人などの若手に、横山やすし、笑福亭仁鶴といったベテランにも参加していただいて、オールロケーションで撮るということになったのはいいのですが、心配の種が一つだけありました。

 この西田さん、とってもナイスガイなのですが、その繊細なお人柄のゆえなのか、酒に飲まれるタイプの人なのです。一度酒でしくじって左遷されていたのですが、ようやくその禁も解けて制作部に復帰したばかりでした。今回はその再スタートとあって「撮影開始の前夜に思い入れをし過ぎて、飲まれなきゃいいがな?」そう思っていた私の不安は的中、案の定、心斎橋の上から始まったファーストシーンから迷走気味。とてもディレクションなど出来るわけもなく、ADの宮崎さんと井筒さんの手で大半のシーンを撮り終えたのを覚えています。でも、番組化を実現できたのは彼のお陰です。「しょうがないな」と思いながら皆に愛されている不思議な人でしたね。

 この番組が契機になったのか否か、翌年ATGの「1000万円映画企画」で紳助・竜介主演の「ガキ帝国」の映画化が実現したのですから、少しは役に立ったのかもしれませんね。

井筒さんの脚本「恋のかけら -大阪物語-」のスケジュール表

 

映画化が実現した「ガキ帝国」(監督・井筒さん 主演・紳助竜介)

 

HISTORY

第話

 この頃(1978~1979)の関西の演芸界は沈滞ムードに覆われていました。Wヤングの中田軍治さんの自殺などもあって、漫才番組も激減し、各局合わせても週1~2本を数えるばかりでした。たしか「上方芸能」という雑誌で「上方漫才は死滅したのか」という特集が掲載されたりしていました。一方、新喜劇でも伴大吾や、谷しげる、淀川五郎といったベテランクラスが借金苦で失踪したり、退団を余儀なくされていました。劇場の観客動員も減少し、一部では、このままいけば「閉館も余儀なくされることになるのでは」と、危惧する向きもあったように記憶しています。

 そんな中でしたね、B&Bから相談を受けたのは。「いくら賞を受けても、上にはやす・きよ、カウス・ボタンといった、そうそうたるメンバーがいて、いつまでたってもテレビに出られない。このままだとチャンスを逃してしまうので、東京へ出てチャレンジをしてみたい」とのことでした。どうやら、「ヤングOH!OH!」の若手ユニットである「チンチラチン」のコーナーに、弟弟子の紳助・竜介が選ばれ、自分たちが外れたことが引き金になったようです。このときのB&Bは3代目(相棒が洋八君)で、洋七君の初代の相棒がまだ団純一君(現放送作家・萩原芳樹)の頃、我が家に泊めたことや、私が、やすきよさんのマネージャーを離れてからも東京へ出て、東京事情に明るいと思われたのかもしれません。

 「自社のタレントを、同業の他社に紹介するなんて!」と思われるかもしれませんが、それが本人たちの願いなら「チャンスをつかむために、フィールドを変えてみるのもいいのかな」と思っただけのことです。後で、会社から殊更咎められることもなかったのは、彼らがまだ、会社として問題になるほどのタレントでもなかった、ということかもしれません。ただ、せっかく移籍をするのなら、既存の大きな事務所ではなく、「小さくてもいいから、彼らのことを懸命に考えてくれる所はどこか?」ということを主眼に選んで、彼らに勧めたのが戸崎事務所だったというわけです。戸崎社長の誠実そうなお人柄と、どちらかというとダサい服装の多い、お笑い界のマネージャーの中で、アイビースタイルでピシッと決めた姿がかっこよくて、きっと「この人なら、マネジメントのセンスもいいんじゃないかな」と思ったからです。私は紹介だけをして、その後のことは両者の話し合いで決まったのですが、結果これが吉と出て、以降B&Bの快進撃が始まったのですから、不思議なものですね。

伴大吾さん(左)と谷しげるさん

 

3代目 B&Bでブレイクしました。

 

HISTORY

第話

 1979年9月、東京に移籍したB&Bは瞬く間に高い評価を得て、翌80年1月、あの澤田隆治さんプロデュースによる「花王名人劇場・漫才新幹線」で、やす・きよ、セント・ルイスさんと共に出演をして、脚光を浴びるようになるのですが、当初企画されたのはこのキャスティングではなく、「アラン・ドロン、B&B,ツービート、Wヤング」の4組だったといいます。それが10月25日の中田軍治さんの自殺によって、変更になったのですから、運命の機微というものを感じざるを得ません。

 この花王名人劇場が10月にスタートした当時は、森繁久彌さんや山田五十鈴さんなどの大物俳優を起用したドラマからスタートしたのですが、思ったほどの視聴率が稼げず、方向転換を図っていた時期でもありました。その起死回生策ともいうべき「漫才新幹線」が、視聴率を東京で15.8%、関西で27.2%を記録することができたのですから、番組自体としても愁眉を開くことができたというわけです。後々、この枠から芦屋雁之助さん主演の「裸の大将」というドラマのヒットシリーズが生まれますが、この番組が都合10年半に亘って続けられたのは、この「漫才幹線」の果たした役割が、とても大きかったように思います。もし、当初のメンバーで放送をしていたら、果たしてこれだけの視聴率を稼げていたでしょうか?

 ちょうど、そんな折でした。いつものようにフジテレビの制作部を訪ねると、「ハイヌーンショウ」や「爆笑ゴールデンショー」などでお世話になっている佐藤義和さんから、「今度新しく我々の部門の責任者になった人を紹介します。」と一人の方を紹介されました。見ると、物腰の柔らかそうなおじさんが近づいてきて「何もわかりませんので、よろしくお願いします」と名刺を差し出されました。拝見すると「横澤彪」さん。前任の、ちょっと曲者っぽい新谷進英さんや、私が何かしくじりをした折に「3年間出入り禁止」を通達されて、そのまま3年間も仕事をさせてもらえなかった常田久仁子さんに比べて「随分腰の低い人だなあ」と思ったのを覚えています。この時は、まさか、後年あれほど長いお付き合いをするようになるとは思ってもいませんでしたねえ。

若き日の澤田さんと、三枝(現・文枝)さん

 

花王名人劇場のプロデューサー澤田隆治さん

 

HISTORY

第話

 そんな出会いがあって、何日か経ったある日、大阪にいる私のもとに、フジテレビの佐藤さんから電話が入りました。4月1日に「火曜ワイドスペシャル」の枠で漫才番組をやりたいので、横澤さんと一緒に大阪へ来られるとのこと。さっそく日時を決め、その日はちょうどABCの方との打ち合わせもあったので、向かいにあるプラザホテルでお会いすることにしました。

 従来の演芸番組のスタイルを捨てて、司会者も置かず、ポップな、若者に向けた新しい漫才番組を創りたいという企画の意図をお聞きした後、話はキャスティングへと移りました。フジテレビさんから出された要望は、「東京からは3組、ツービート、セントルイス、B&B」。これはまあ妥当なところだからいいとして、肝心なのは大阪からのメンバーです。「吉本さんからは、やす・きよさんは是非ものとして、他に2組を!」。その後、やや間があって「残りの1組を、松竹芸能のレッツゴー三匹さんにお願いしようと思っています」と、言葉が続きました。

 「うーん、レッツゴー三匹ですか・・・」曖昧な返事を返しつつ、私の頭の中はフルに回転をしていました。〜やす・きよさんのブッキングをマストという以上、彼らを外すことは絶対できないはず、それに、かってやすしさんが事件を起こした時に、松竹芸能の石井さんから「これで、うちの勝ちやな」と言われた積年の恨みもある~ ここは乾坤一擲の勝負を賭けてみようと、「わが社の看板であるやす・きよさんを是非にとおっしゃるのでしたら、大阪からの4組は、すべて吉本からにしていただけませんか?」と言ってみることにしました。もしその案が受け入れられない時には、この番組からは手を引くつもりでした。

 さて今度は先方が困る番です。しばしの沈黙の後「…わかりました、じゃ、それで結構です」という返事が返ってきた時には張りつめていた気分も緩み、ホッとしたのを覚えています。レッツゴー三匹さんには何の恨みもないのですが、この時の決断が、その後の両社の盛衰を分けるきっかけになったことを思えば、あながち間違いではなかったということかもしれません。

 そのあと、場所をミナミへ移して、河畔の夜景をながめながら、道頓堀の浜藤で食べた「てっちり」がいつにも増して美味しかったのを、今でも鮮明に憶えています。

当時のプラザホテル

 

いつにも増して美味しかった「てっちり」

 

道頓堀の夜景