木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 芸人さんや新喜劇の稽古、テレビ番組の中継などに触れるうち「やっぱりモノ創りの現場っていいよなぁ」と思うようになりました。劇場の皆さんは優しいし、それはそれで楽しく働かせていただいたのですが、2年目もまた同じことを繰り返すのかと思うとブルーな気分になってきました。かといって、支配人や先輩上司に相談するわけにもいかず、直接本社の人事課長に連絡を取り、思いのたけをぶつけることにしました。温厚そうな課長には、食事までご馳走になりながら、「7月の異動では本社の制作部に異動させてください。でなければ、辞めるつもりです。」今にして思えば、掟破りをした上に、随分生意気なことを言ったとは思うのですが、「叶うかどうかはわからないけど、君の希望は分かった」と言っていただきました。実際、それが叶ったところをみると、残業代もつかないのに稽古に付き合ったりしているのを、どこかで誰かが見ていてくれたのかもしれません。

 ようやく念願の本社制作部勤務となり、通勤の京阪電車もそれまでとは逆の淀屋橋方向に乗り、地下鉄に乗り換えて心斎橋へ通勤する日々が始まりました。当時は、西日本最大のボウリング場「吉本ボウル」などを運営する事業部に比べ、劇場運営や芸人さんのマネジメントをする制作部は社員の数もまだ少なく、事務の女性を入れても、部長以下まだ14・5人位の所帯であったように思います。与えられた仕事はデスクの補助、といっても先輩方にかかってきた電話をメモに取って伝えるだけ。当時はまだ携帯電話なんてありませんから、ボードに記された立ち寄り先に電話して伝えるしか方法がありませんでした。先方が急いでいるので自分の判断で返事をしたりすると、こっぴどく叱られるので「それなら自分で処理せえよ!」と思ったりもしたのですが、そんなことはおくびにも出せません。

 1週間のスケジュール表を作らされるのですが、テレビやラジオ、営業の仕事がA4ノートの2ページに収まるくらいでしたから、1日に10本前後、まだまだ劇場が中心の時代でしたね。先輩たちは決まって夕方5時くらいになると、「劇場へ行ってきまーす」と言って姿を消します。残されるのは事務の女性と私だけ。最初は信じていたのですが女性たちに聞くと、部長を囲んでの麻雀が連日開かれているのだとか。コミュニケーションを図る手段としてはいいのでしょうが、麻雀を知らない私としては誘ってもらえない淋しさと、誘ってもらえなくて良かったという思いが交錯して妙な気分だったのを覚えています。

本社デスクでの仕事風景

 

連日開かれていた麻雀