木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 夏のボーナスは、まだ試雇の身とあって支給されなかったのですが、3日間の休みをいただいて、学生時代から付き合っていた友達に会うため、鹿児島まで行くことにしました。彼女が南日本放送のアナウンサーになっていたからです。京都を夜11時頃に出て、西鹿児島(現在の鹿児島中央駅)に翌日の昼頃に着く寝台特急「あかつき」、しかもB寝台の一番上。空が白み始めるころ博多に着くのですが、その先の長かったこと。いいかげん尻が痛くなったころにようやく到着。鹿児島の地を訪れるのは高校の修学旅行以来のことです。

 さっそく、出迎えてくれた彼女と合流し天文館辺りを散策、食事をしながら互いの近況などを語り合いました。その夜は彼女のアパートに泊めてもらい、翌日は職場に行く彼女の部屋でひとり時を過ごしました。ラジオを聞くと「城山スズメ」という番組が流れてきて、初めから終わりまで一言も理解できず、「薩摩弁恐るべし、英語を聞き取る方がよほど楽だな」と思ったのを覚えています。その夜にはもう、帰宅した彼女の見送りを受けて、再び「あかつき」で京都へ向かうという強行スケジュールでしたが、久しぶりに会った彼女が楽しく働いている様子を見ることができて、疲れなど全く感じなかったですね。とはいえ京都と鹿児島ではあまりに距離が遠くて、だんだん疎遠になっていったのは仕方のないことかもしれません。お父さんが京都大学の教授、お兄さんも京都大学、「女の子だから同志社でもいいかと思いまして・・・」学生時代に下鴨の彼女の実家を訪ねた時に、お母さんが何気なくつぶやかれた家庭に育った娘と一緒になったところで窮屈な思いをしただけかもしれません。「こちらは、やっと入ったというのに!」という思いを押し殺しながら、せっかく出していただいた饅頭を、ほろ苦い思いとともにいただいた思い出があります。

 その後何年かして、彼女は地元のKBSにアナウンサーとして戻り、ディレクターと結ばれたのですが、離婚をして、思いやりのある男性と再婚したそうです。結局、十年ほど前に急死してしまったのですが、母校の125周年講演に招かれたときに、訪ねてきてくれた幸せそうな顔が今も忘れられません

寝台特急列車「あかつき」に乗って鹿児島まで

2001年 同志社大学の創立125周年記念で再会

MBC南日本放送「城山スズメ」の番組スタジオを訪ねて(ファイブエル2014年1月号より)