木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 夏のボーナスは、まだ試雇の身とあって支給されなかったのですが、3日間の休みをいただいて、学生時代から付き合っていた友達に会うため、鹿児島まで行くことにしました。彼女が南日本放送のアナウンサーになっていたからです。京都を夜11時頃に出て、西鹿児島(現在の鹿児島中央駅)に翌日の昼頃に着く寝台特急「あかつき」、しかもB寝台の一番上。空が白み始めるころ博多に着くのですが、その先の長かったこと。いいかげん尻が痛くなったころにようやく到着。鹿児島の地を訪れるのは高校の修学旅行以来のことです。

 さっそく、出迎えてくれた彼女と合流し天文館辺りを散策、食事をしながら互いの近況などを語り合いました。その夜は彼女のアパートに泊めてもらい、翌日は職場に行く彼女の部屋でひとり時を過ごしました。ラジオを聞くと「城山スズメ」という番組が流れてきて、初めから終わりまで一言も理解できず、「薩摩弁恐るべし、英語を聞き取る方がよほど楽だな」と思ったのを覚えています。その夜にはもう、帰宅した彼女の見送りを受けて、再び「あかつき」で京都へ向かうという強行スケジュールでしたが、久しぶりに会った彼女が楽しく働いている様子を見ることができて、疲れなど全く感じなかったですね。とはいえ京都と鹿児島ではあまりに距離が遠くて、だんだん疎遠になっていったのは仕方のないことかもしれません。お父さんが京都大学の教授、お兄さんも京都大学、「女の子だから同志社でもいいかと思いまして・・・」学生時代に下鴨の彼女の実家を訪ねた時に、お母さんが何気なくつぶやかれた家庭に育った娘と一緒になったところで窮屈な思いをしただけかもしれません。「こちらは、やっと入ったというのに!」という思いを押し殺しながら、せっかく出していただいた饅頭を、ほろ苦い思いとともにいただいた思い出があります。

 その後何年かして、彼女は地元のKBSにアナウンサーとして戻り、ディレクターと結ばれたのですが、離婚をして、思いやりのある男性と再婚したそうです。結局、十年ほど前に急死してしまったのですが、母校の125周年講演に招かれたときに、訪ねてきてくれた幸せそうな顔が今も忘れられません

寝台特急列車「あかつき」に乗って鹿児島まで

2001年 同志社大学の創立125周年記念で再会

MBC南日本放送「城山スズメ」の番組スタジオを訪ねて(ファイブエル2014年1月号より)

HISTORY

第話

 芸人さんや新喜劇の稽古、テレビ番組の中継などに触れるうち「やっぱりモノ創りの現場っていいよなぁ」と思うようになりました。劇場の皆さんは優しいし、それはそれで楽しく働かせていただいたのですが、2年目もまた同じことを繰り返すのかと思うとブルーな気分になってきました。かといって、支配人や先輩上司に相談するわけにもいかず、直接本社の人事課長に連絡を取り、思いのたけをぶつけることにしました。温厚そうな課長には、食事までご馳走になりながら、「7月の異動では本社の制作部に異動させてください。でなければ、辞めるつもりです。」今にして思えば、掟破りをした上に、随分生意気なことを言ったとは思うのですが、「叶うかどうかはわからないけど、君の希望は分かった」と言っていただきました。実際、それが叶ったところをみると、残業代もつかないのに稽古に付き合ったりしているのを、どこかで誰かが見ていてくれたのかもしれません。

 ようやく念願の本社制作部勤務となり、通勤の京阪電車もそれまでとは逆の淀屋橋方向に乗り、地下鉄に乗り換えて心斎橋へ通勤する日々が始まりました。当時は、西日本最大のボウリング場「BOWL 吉本」などを運営する事業部に比べ、劇場運営や芸人さんのマネジメントをする制作部は社員の数もまだ少なく、事務の女性を入れても、部長以下まだ14・5人位の所帯であったように思います。与えられた仕事はデスクの補助、といっても先輩方にかかってきた電話をメモに取って伝えるだけ。当時はまだ携帯電話なんてありませんから、ボードに記された立ち寄り先に電話して伝えるしか方法がありませんでした。先方が急いでいるので自分の判断で返事をしたりすると、こっぴどく叱られるので「それなら自分で処理せえよ!」と思ったりもしたのですが、そんなことはおくびにも出せません。

 1週間のスケジュール表を作らされるのですが、テレビやラジオ、営業の仕事がA4ノートの2ページに収まるくらいでしたから、1日に10本前後、まだまだ劇場が中心の時代でしたね。先輩たちは決まって夕方5時くらいになると、「劇場へ行ってきまーす」と言って姿を消します。残されるのは事務の女性と私だけ。最初は信じていたのですが女性たちに聞くと、部長を囲んでの麻雀が連日開かれているのだとか。コミュニケーションを図る手段としてはいいのでしょうが、麻雀を知らない私としては誘ってもらえない淋しさと、誘ってもらえなくて良かったという思いが交錯して妙な気分だったのを覚えています。

本社デスクでの仕事風景

 

連日開かれていた麻雀

 

1964年にオープンした「BOWL 吉本」は、当時58レーンを持つ西日本最大のボウリング場でした。

 

HISTORY

第話

 制作部に移って1か月もすると、大体の様子も解ってきたので、上司のデスクに6時の退社後、勉強のために「誰もフォローしない現場へ行ってもいいですか?」と尋ねると「勝手にしたら?」と言われたので、外へ飛び出すことにしました。どうも私は、デスクにじっと座っているのが性に合わない質のようで、先輩から言われたこの言葉が天恵のように思えたのです。最初に行ったのは確か露の五郎さんというベテラン落語家さんの現場で、箕面スパーガーデンのラジオの公開録音だったように思います。先輩たちは麻雀に忙しくて、屋外や郊外の公開録音のような仕事には行かず、芸人さんだけで現場へ行くのが当たり前とされていたのです。もちろんマネージャーの交通費までは出ませんから、行くだけで赤字になってしまうという事情もあったのかもしれません。

 一方ではいくら新人とはいえ、マネージャーらしき人間が行くことによって芸人さんの方も「自分が大事にされている」という思いもあったのか、とても親切にしていただき、難波のベルファンというサパークラブでの公録の際には食事まで奢ってもらい、いろいろな話を聞かせていただきました。他にも三人奴さんや朝日丸・日出丸さんなど、ベテランの芸人さんの現場にも行かせていただいていたのですが、たまたま、どういうきっかけだったのか忘れましたが、売り出し中のやすし・きよしさんの現場へも行くことがあり、それまでのベテランの芸人さん達とは違って、とても楽しかったのを覚えています。年齢が近いということもあったのでしょう、以後たびたび彼らの現場にお邪魔するようになりました。

 当時はまだマネージャーという制度はなく、ABCは誰、MBSは誰という風に、先輩たちが放送局別に業務を担当していました。おまけに、先輩たちは劇場のプロデューサーも兼務していましたから、実は結構忙しかったのです。「麻雀ばかりして!」などと思っていた私は、とんだ認識不足だったようなのです。2・3か月そんな状態が続いて、すっかり「やすきよ」さんの虜になった私は、デスクで培ったスキルを活かして、いつの間にか、彼らのスケジュール表を作るようになっていました。それならついでに、マネージャーを名乗ってしまえということで、勝手に名刺を作って行く先々で配るようになりました。普通の会社なら「何を勝手なことをしているんだ!」とお叱りを受けるところですが、誰からも何の注意も受けませんでしたね。不思議な会社です、吉本という所は。

  露の五郎さん        三人奴さん           朝日丸・日出丸さん

当時のスケジュール表

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第話

 デスクをしながら勝手マネージャーを自称して、2か月ほど経ったある朝、いつものように「ただいま恋愛中」の収録のあるABCホールへ行くと、何やら異様な雰囲気が漂っていました。新聞記者やカメラマンが押し寄せていて、いつもの和やかなムードとは違う空気を察して、ABC担当の先輩に「何かあったんですか?」と尋ねると、やすしさんが前日深夜の帰宅途中にタクシーと接触事故を起こし、抗議した運転手さんに暴行を働き、打撲傷を負わせたらしいということが分かってきました。悪いことに相手のタクシーに乗っていた客が大阪新聞の記者で、翌日の新聞に大きく報道されてしまったのです。おまけに前月にも同様の事件を起こしていたことや、運転免許証がグアムで買った他人名義のものであることまでが発覚してしまいました。

 この重大事に、会社からは制作担当の専務までが来ていて、さっそくその日の収録からは横山さんを外して、仁鶴さんと西川さんが司会を務めて収録することになったようです。コンビ結成5年、異例の若さで上方漫才大賞を受賞して将来を嘱望されている最中のアクシデントでした。事後処理のすべては吉本の上層部と放送局の幹部との間で決められ、新人の私などの全くあずかり知らぬところでの出来事でした。西川さんには「ただいま恋愛中」の他にもコンビでやっていた仕事の何本かは残されたのですが、劇場の出番はなくなりました。一方の横山さんは10本ほどあったテレビやラジオの仕事を失い、先の見えない謹慎生活を余儀なくされました。過去に謹慎から第一線にカムバックした人の例がなかっただけに、彼の抱えた不安は大きかったと思います。

 幸い劇場だけには4か月で復帰をすることができたのですが、テレビ・ラジオへの復帰が叶ったのは、執行猶予期間が明けた後の2年4か月が経ってからのことでした。ともに務めるステージが終わった後、テレビやラジオに忙しく駆け回る西川さんを見て、ひとり楽屋に残される横山さん、いくら自分が蒔いた種とはいえ、辛いものがあったでしょうね。でも、この2年4か月という時間は、横山さんにとっても、西川さんにとっても、何より私にとっても決して無駄な時間ではなかったのです。

1970年12月3日の新聞各紙は暴行事件の見出しで賑わした

報道記者に囲まれて会見をする横山さん

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第話

 傷心の横山さんに、さらに追い打ちをかけるような出来事がありました。事件の翌年、奥さんが2人の子供を連れて家を出てしまったのです。でも、そんな折に楽屋を訪ねてきた幼馴染の啓子さんと巡り合い、やがて結ばれることになったのですから、天の配剤というほかありません。ちょうど同じころ、啓子さんも2人の子を前夫側に残して離婚していたのです。

 一方の西川さんには、2人でやっていた仕事以外に新番組からも声がかかって、以前にも増して忙しい日々を送るようになっていました。ただ、「爆笑寄席」や「ABC学園」という集団コメディはともかく、仁鶴さんや三枝さんという一人芸の達人たちとコンビを組むというのは大変だったと思います。すべったり、空回りをしたり・・・。試行錯誤を重ねながら、それでも果敢に挑んでいく西川さんの姿を目の当たりにして、本当のプロの厳しさというものを教えてもらった気がします。同い年とはいえ、こちらはまだ社会人2年生、一方の西川さんは中学を出て早く芸能界に入り、苦労を重ねて立派に自立している大人。社会人としてのキャリアが違います。西川さんと2人で過ごす時間が多くなるにつれ、色んなことを教えていただきました。

 家庭の事情で上の学校へ行けなかったから、「芸能界に入って大学を出た同年代の人間が社会人になる22歳までに、何としても自分の家を持ちたかった」という話を聞いた時、ぼけーっと生きてきた自分の生き方が情けなく思えたものです。祇園・先斗町の料理屋さんや、千日前のすし屋さんなど、今までに行ったことのないようなところへも連れて行っていただきました。困ったのは、味覚というのはいったん上がってしまうと、下げることが難しいということです。おかげで、学生時代に「おいしい」と思っていた所が、「そうでもないな」と思うようになってしまいました。といって、そんな上等な店など、安月給の身で到底行けるわけもありませんからね。なんとも罪なことをしていただきました。

やすしさんと結婚をした啓子さん(昭和50年)

  

千日前の寿司屋「一半」                 先斗町の「一粒庵」

HISTORY

第話

 あり余るエネルギーを解消するかのように、横山さんはマラソンに嵌っていきました。無聊をかこつ身には、ほとばしる己が勢いをぶつける対象が必要だったのです。自宅のある堺市から出演している梅田や難波花月まで、約20~30キロの行程を走っていたように思います。「別府毎日マラソン」に出場すべく、オリンピックランナーの君原健二さんなどにアドバイスを求めていたりもしていたようですが、傷害事件を起こした横山さんには、陸連からのライセンスが下りず、やむなく断念せざるを得ませんでした。次にエネルギーをぶつけたのが、かって、視力検査で落とされ、選手への道を諦めざるをえなかったボートだったというわけです。

 売り出し中のやす・きよコンビがテレビに出られなくなったこともあって、寄席番組では、大御所がたくさんいらっしゃるライバルの松竹芸能が押し気味のキャスティングになっていました。そんな時、ABCホールの楽屋で、当時課長として芸能の現場を牛耳っていた石井光三さんから「これで松竹芸能の勝ちやな」と言われたのです。「くそーっ!」と思いましたね。この悔しさが後々のモチベーションになった気がします。当時のマネージャーのスタイルは、芸人さんと一緒に楽屋で麻雀をしたり、酒を飲みに行って仲良くなり、多少のよいしょもしながら気分よく仕事をしてもらう、この石井さんがその代表格のような人が多かったような気がするのですが、私はギャンブルも知らず、酒も飲めません。心にもないよいしょもできない自分が、そんなスタイルをとったところでしょせん馬脚を現すだけの事、それなら、いっそ「汗と涙とよいしょ」ではなく、頭脳で貢献するマネジメントを目指そうと思いました。同時に当時、西川さんが司会をしていた「シャボン玉プレゼント」に出演する歌手の方々のマネージャーたちのスマートな姿にも惹かれていました。開襟シャツでセンスをパタパタさせながら大阪弁でまくしたてる石井さんを見ながら、これからは「芸人と事務員」という呼び方ではなくて、「タレントとマネージャー」という関係に変えていかなきゃいけないなと思いましたね。

 そう思わせてくれた恩人の石井さんは、のちに松竹芸能を退社され東京へ出て「石井光三オフィス」をつくって、コント赤信号をはじめ多くのタレントを育てられ、昨年83歳で鬼籍に入られました。お礼とともに、ご冥福をお祈りいたします。

恩人の故・石井光三さん

 

松竹芸能の看板「かしまし娘」の皆さん

 

松竹芸能の芸人さんが出演していた角座

HISTORY

第話

 あっという間に1年が過ぎましたが、後輩は入って来ずビリッケツのまま自分の名前は一番端っこに書かれたまま。結局5年間その状態が続いたのですが、たまには先輩や事務の女性たちと近場の避暑地へ出かけたりもしていました。とても家族的で居心地のいい職場ではあったのですが、さすがにこの状態のままだと、「いつまでたっても、先輩たちに追いつけないぞ」という焦燥感を覚えるようにもなってきていました。といって特別な才能があるわけでもない自分が、先輩たちに追いつくにはどうすればいいのか?と考えた時、「3倍働こう、そうしたら1年で先輩たちに追いつける」と思ったんですね。実際に3倍働くなんてことは物理的には無理なのですが、なぜか咄嗟にそう思ったのです。西川さんの影響もあったのかもしれません。天才漫才師と呼ばれた横山さんに対峙するため、愚直なまでに努力を重ねている姿を目の当たりにしていましたからね。

 当時人気番組になりつつあったMBSの「ヤングおー!おー!」などは、吉本が共同制作をしていたこともあって、部長以下先輩たちが集結していましたから、到底私などが入り込む余地はありません。そこで、先輩たちが現場にあまり顔を出さないABCの番組やKTV、ラジオではOBCに顔を出すようにしていました。顔を出していればプロデューサーやディレクターとも親しくなり、仕事の依頼もいただけるようになります。もっとも当時「100%ディレクター」と言われ、人気絶頂の「てなもんやシリーズ」の生みの親、澤田隆治さんから初めて声をかけられたのが、「君、吉本やったなあ、吉本やったらブスがいっぱい居るやろ、5人ほど連れてきてくれ」という言葉だったのは今でも覚えています。この時は、まさか以後散々お世話になるなどとは夢にも思っていませんでした。「そんな依頼の仕方はないやろ!」と反発したい気持ちはありましたが、こちらは何せペーペーの身、カリスマのような澤田さんに逆らえるわけもなく、「わかりました」とそのまま依頼を受けたのを覚えています。確かに、おっしゃるように美人はほとんどいなかったので、すぐにキャスティングをすることはできたんですが、どこか釈然としない思いだけは残りましたね。

近場の避暑地へ出かけた時の写真

 

宿泊した池田市の「不死王閣」

 

映画「ヤングおー!おー! 日本のジョーシキでーす!」73年11月公開(吉本興業・東映京都の製作)

前列 笑福亭仁鶴、後列左から 横山やすし、西川きよし、岡八郎、岡本隆子、前田五郎、坂田利夫の皆さんたち

 

国民的人気番組となったの喜劇番組「てなもんや三度笠」

 

左から、藤田まことさん、財津一郎さん、白木みのるさん

 

チンピラやくざのあんかけの時次郎と、小生意気な小坊主の珍念が繰り広げられました。

 

 

HISTORY

第話

 やす・きよコンビ不在の穴を埋めるかのように、漫才では吉本のコメディNo. 1、カウス・ボタンや、松竹芸能のレッツゴー三匹さん、敏江・玲児さんなどの若手が台頭してきました。私も、コメディNo. 1にはラジオの公録で和歌山の友が島や、テレビの企画で深夜放送の終わった後、タクシーで移動して敦賀から小樽まで新日本海フェリーに乗って、北海道ロケに付き合ったことがあります。あいにく海が時化て、私や坂田さんだけではなく船員さんまでが部屋に閉じこもってゲーゲー言ってるのに、前田さんだけがただ一人、ご飯のお替りをしていたのを覚えています。カウス・ボタンの2人はジーパン姿もよく似合って、アイドルのように人気がありました。先輩に頼まれて彼らと一緒に福岡のRKBラジオへ行ったこともありました。京都のKBSの公録では、2人のあまりの人気ぶりに、彼らが退出する際、通路にロープが張られ、一緒に出演していた、いくよ・くるよの2人が一般客に混じって整理されているのを見て、大笑いをしながら救出したこともありました。

 いくよ・くるよの2人とは、同じ京都生まれで年齢もほぼ同じということもあって、本当に密に付き合った記憶があります。下手で不器用で、どうしようもないコンビだったのですが、こちらが可愛い方のいくよさんに、打ち合わせと称して深夜に呼び出し電話をかけると、決まってくるよさんを伴って現れるのです。食事をしながらあれやこれや話をし、タクシーで2人を送ってから帰宅をしていたのですが、どこかで、この2人にチャンスを与えられないものかと、もがいていたのも事実です。ある時、そんな彼女たちにチャンスがやってきました。もう番組名は忘れてしまいましたが、その番組の中で、3分間漫才を披露できるというのです。そこで、本番を迎える前夜、2人を自宅に呼んで披露するネタの特訓をすることになったのはいいのですが、ノウハウがあるわけでもない私に、漫才の演出など出来ようはずもありません。結果、彼女たちは単に声を枯らしただけで、惨敗に終わってしまったという苦い思い出があります。

 やがて師匠から自立した2人は、京都の縄手通り辺りのビルの屋根裏に「ファイト&ファイト」というスナックを開いて、接客をしながら会話力に磨きをかけ、後年名伯楽の澤田隆治さんにチャンスを与えられ、見事にそれを活かすことができて本当に良かったと思っています。願わくば、往年の花菱〆吉・花柳貞奴さんのように、女流漫才の大御所として君臨をして欲しかったのですが、残念なことに、いくよさんは一足早く天国へ召されてしまいました。

若き日のくるよさん(左)といくよさん(右)

 

今いくよ・くるよ、B&B、紳助竜介さんたちの師匠・島田洋之介・今喜多代さん

 

お弟子さんたちに囲まれた、島田洋之介・今喜多代さん

 

現在の今くるよさん。左側の人は漫才師ではありません。

 

花菱〆吉さん(左)と花柳貞奴さん(右)

 

 

コメディーNo.1の坂田さん・前田さんと、船員の皆さん、TVクルーと記念撮影

 

坂田さんとツーショット

 

レッツゴー三匹さん

 

敏江・玲児さん

 

HISTORY

第話

 一緒に時間を過ごしたというと、間寛平さんもその一人です。私が入社した翌年に、大阪のミナミにアメリカ村を開いた日限萬里子さんの紹介で吉本に入ってきました。最初は花紀京さんに付いて、身の回りのお世話などをしていたのですが、着物の帯を締めるとき、帯の端を持ってじっとしていればいいものを、くるくる回る花紀さんと一緒に彼も回ったために、いつまでたっても帯が巻けなかったとか、舞台が暗転して舞台袖に入るため、花紀さんの足元を懐中電灯で照らして転ばないようにしなきゃいけないのに、顔を照らしてしまったとか、エピソードに事欠かない愛すべき存在でした。当然付き人役は早々にお役御免にはなったのですが、そんな彼のキャラクターの面白さもあって、その翌年に始まった西川さんが主役のコメディ、「ABC学園」の生徒役にキャスティングをしていました。後に、木村進さんとのコンビでブレイクするのですが、当時の彼はまだそんな状況でもありませんでした。

 この番組は本番の前日、リハーサルが始まるのは各自が出演している劇場がハネてからの21時半位で、終るのが24時頃。西川さんたち出演者をすべて見送った後、自分も帰るのですが、京都まで帰るのが億劫だったこともあって、彼と一緒に神戸まで遊びに行きました。気楽さもあったのでしょう。終わった後は、再びABCまで引き返して、リハーサルの始まる8時半頃まで車中で仮眠をとって本番を迎えるというわけです。若かったのですね、2人とも。それにしても、彼がなぜ車に乗っていたのか?お互い金もないのにどうやって遊び代を工面していたのか、全く覚えていないのが不思議です。その後も何度か彼に家まで送ってもらったこともありましたが、何せ車を飛ばすんです。ある時、「一つ先の信号ではなく、二つ先の信号を見て走るのがコツなんですよ」という彼の講釈に耳を傾けていると、いきなりパトカーに「前の車止まりなさい!」と停車を命じられたこともありました。話に夢中になって、バックミラーをチェックしていなかったのですね。運転できない私には「後ろに気を配るように!」などというアドバイスなど出来ようはずもありませんでした。「ほらね」という彼に「ほらねやないやろ!」と思わず突っ込みを入れたりしていました。後に徳間音工から出した「ひらけ!チューリップ」が、累計100万枚の大ヒットとなって、木村進さんと共に新喜劇の看板スターになっていく、まだ前の出来事でしたね。

若かりし頃の間寛平さん

 

間寛平さんが唄った「ひらけ!チューリップ」

 

日限萬里子さん 空間プロデューサー。倉庫街だった炭屋町に喫茶店「ループ」を出店。アメリカ村の生みの親となりました。

 

HISTORY

第話

 こうしていろんな芸人さんとの交流も少しずつ増えてはいきましたが、一緒に過ごした時間が一番多かったのはもちろん西川さんでした。やすしさんの事件の後に引っ越された千里の自宅へも何度かお邪魔をしました。やす・きよ漫才の面白さの虜になっていた私は、生意気にも西川さんに「もう一回、日本一を目指しましょうよ!」と言って、「なれへんかったら、どうすんねん?」と返され、「その時は会社を辞めます」と答えたことがあります。「君が辞めても、しゃーないがな」と言われ、その時はそれで終わったのですが、その思いはその後も変わることはなかったと思います。

 当時の吉本は、先輩が手取り足取りして後輩を指導せず、「勝手に現場で頭を打たれながら、仕事を覚えろ」という風潮の会社でしたから、多くのことはやす・きよさんはじめ、芸人さんやテレビ局やラジオ局の人から教えていただいた記憶があります。中でも一人になって懸命に頑張っている西川さんと、密な時間を過ごせたことは、後々の自分の貴重な財産になった気がします。

 西川さんから学んだのは、何といっても周囲への気遣い。共演者やスタッフへの心配りは尋常ではありません。「みんなこの人のために頑張ろう」と思いますよね。町中で靴磨きのおじさんがいれば、必ず磨いてもらって定価の倍ほどのチップを、そりゃ、「西川さんっていい人や!」となりますよ。タクシーに乗れば2,100円程の料金でも、3,000円渡してお釣りを待っている私を後目に「運転手さんお釣りは結構です」と言いながらさっさと降りていきます。「後で精算する私の身にもなってくださいよ」と言いたいところですが、これも西川さんの評判を上げるためと思い、辛い思いをしたこともありましたね。

 自身が苦労を重ねてきただけに、それだけの気配りができるのでしょうね。気を遣うということが、自然と身についているのだと思います。それまでの反動で逆に威張りちらす人もいるのでしょうが、そんなこととは凡そ無縁の人でしたね。西条凡児さんの後を継いだ「素人名人会」や「4時だぜ!飛び出せワイワイワイド」のような、素人さんや子供たちを相手の司会番組では、ことのほか西川さんの良さが発揮されていたと思いますね。

素人名人会(毎日放送)の参加賞

 

子供の頃、「4時だぜ!飛び出せワイワイワイド」の会員(スタジオメイツ)だった桂雀々さん

 

レギュラーだった桑原征平アナウンサー(当時)

 

同じくレギュラーだった麻田ルミさん