木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 そんなこんなで徐々に仕事にも馴染んではきたのですが、大阪勤務の同期生5人とも連絡を取り合うこともなく、仕事の範囲は京都、それも劇場のある新京極近辺に留まったままでした。一度だけ梅田花月まで書類を届けるように言われて行ったことはあるのですが、梅田の地下街で迷ってしまいなかなか辿り着けず、人の多さと活気に圧倒されて、ほうほうの態で京都まで逃げ帰ったという苦い記憶があります。

 当然、本社の情報などは新入りの私などに入ってくるわけもなく、本社から劇場に来る制作部や団体係の先輩たちの会話を小耳に挟むのが関の山でした。事務所のボードには、毎月本社から送られてくる「今月の入退職者」という書類が掲示されているのですが、何か月か続いて7~8人もの退職者が出ているのを訝って先輩社員に尋ねても、誰ひとり言葉を濁して明快に答えてはくれません。あとで聞いたところでは、大きな経営体制の変革があったらしいのですが、ペーペーの我が身には何の関係もないこと、ただ「こんなに辞めたら、人がいなくなるんじゃないか?」と思っただけの事なんですけどね。

 そんな京都花月劇場にも、月に1回だけはテレビ放送の中継が入りました。MBSの「日曜お笑い劇場」と「素人名人会」の2本です。本来は梅田花月からの中継なのですが、10日単位の劇場のプログラムでは4週分が賄えないために、最終週だけは京都花月から新喜劇の中継をやることになっていたのです。テレビ中継がある時の芝居は、当たり前のことですが、普段とは違ってメンバーそれぞれの力の入れ方が違いました。しかも生放送、寸分違わず放送時間内に収まることに驚きました。「素人名人会」はVTRだったと思いますが、三枝さんや鶴光さん、千里万里さん、Mr.マリックさん、坂本冬美さんなどが素人時代に出演したこともある人気番組です。司会の西条凡児さん、審査員の大久保玲さん、林家染丸さんなど、テレビで観ていた馴染みの人達と同じ空間にいるのが信じられませんでした。不思議に思ったのは、椅子に陣取って番組をモニターしていたテレビ局の次長さんに向かって、通りがかる皆が口々に「お疲れ様です」「ご苦労様です」といつになく丁寧な挨拶をされていたことです。背にもたれながら「おうっ!」と片手を上げながら鷹揚に返事される姿を見て、「やっぱり、テレビ局の人って偉いんだなぁ」と思いましたね。

毒舌と社会風刺が売り物の西条凡児さん。

「素人名人会」の司会であっという間に凡児さんの名は広まりました。

 

「話芸の達人」西条凡児さん

 

審査委員長の大久保怜さん

大久保彦左衛門の子孫という説もあり、大村崑さんの師匠でもありました。

 

大正製薬1社提供だった「日曜お笑い劇場」の台本