木村政雄の私的ヒストリー

HISTORY

第話

 初任給は交通費も入れて、たしか4万2・3千円位だったと思います。昭和32年、当時の大卒初任給を唄ったフランク永井の「1万3千8百円」に比べれば、44年は平均が3万4千円位ですから、そんなに悪くもなかった気がしますが、自宅通勤しているにもかかわらず、月末になると決まってピーピー言っていたように思います。タバコのハイライトや喫茶店のコーヒーが70円、伏見から職場のある河原町四条まで京阪電車は忘れましたが、市電ではまだ20円だった時代の話です。本社から来る先輩たちが「昨日、飲みに行ってなぁ・・・」と話すのを耳にするたび不思議に思って、事務所の上司に「こんな給料なのに、あの人たちどうして飲みに行けるんですか?」と聞いていました。「そのうち解るようになる」曖昧に答える上司の困惑した表情が今も忘れられません。

 考えてみれば当時の大学進学率は21.4%くらい、ざっと5人に1人です。そんな中、公務員の安月給でよくぞ学費の高い私学へ通わせてくれたと思います。今でこそ感謝の気持ちでいっぱいですが、当時はそんなことをおくびにも出さず、給料前になると母からなんだかんだと口実をつくって援助金をせびっていた気がします。

 少し仕事にも慣れてきたある日、上司から「劇場に出演している林家小染さんがKBSラジオの生放送の番組に出るからついて行ってくれ」と言われ、歩いて5・6分の高島屋1階にあるサテライトスタジオまで同行したことがありました。劇場内のルーティーンの仕事と違って、妙に気分が高揚したのを覚えています。ただ後をついて行っただけなのに、マネージャー気分にでもなっていたんでしょうかね。振り返ってみれば、将来芸人さんのマネージャーになるきっかけがこの時に芽生えたのかもしれませんね。以来、劇場に出る芸人さんがラジオに出演するたびフォローするのが私の仕事になりました。

 この4代目小染さんから教えていただいたのは、劇場の出番を組む時に「頭から面白い人ばかり並べてしまうとダメだ」ということです。なぜならお客さんが笑うことに慣れてしまうから。だから、最初はたとえ笑いが少なくてもきちっとした芸を演じられる人、次は芸は拙くても汗をかいて一生懸命にやる人、そして文句なしに面白い人、という風にメリハリをつけなきゃいけないということです。「なるほどなあ」と思いました。お客さんはトイレにも行かなきゃいけないし、腹が減ったら弁当も食べなきゃいけません。当時は一回の興行が4時間近くありました。プログラムに緩急をつけることで、お客さんを飽きさせないことの大切さを学ばせていただきました。この4代目小染さん、将来を嘱望された大器だったのですが、残念なことに36歳の時に交通事故で亡くなってしまいました。上方落語界にとって大きな損失であったと思います。

四代目 林家小染さん

 

小染さんからは、お客さんを飽きさせないことの大切さを学ばせていただきました。

 

当時、四条河原町の高島屋にあったKBSサテスタ前の人だかり